私がこの治療家という道を歩もうと思ったきっかけ、それは高校1年生の時、部活動での出来事がすべての始まりでした。
当時、私はラグビー部に所属しており、毎日のようにハードな練習に明け暮れていました。そんなある日、練習中に転倒してしまい、左脚に激痛が走りました。まったく立てず、救急搬送されたその結果──診断は「大腿骨骨折」。
医師からは「めったに折れない場所なんだけど……」と不思議がられ、周囲の友人や先輩も驚いていました。私自身、「自分の骨はそんなに脆いのか?」とショックを受け、どこか自信を失ってしまった記憶が、今も強烈に心に残っています。
その後、手術を受け、約2ヶ月間入院生活。退院後には本来ならリハビリをしっかりと受けるべきだったのですが、当時の私は若さゆえの過信もあり、「大丈夫だろう」と思って、真剣に向き合わなかったんですね。その代償は、時間が経ってからやってきました。
1年、2年と過ぎるにつれ、左脚の筋力は目に見えて落ち、歩き方や姿勢にも影響が出始めました。気づけば膝が痛むようになり、腰まで違和感を覚え、日常生活に支障を来すようになっていったのです。
「まだ若いのに、なんで自分の体はこんなにおかしいんだ?」
不安と焦燥感が募り、近所の整骨院に通い始めました。
そこで出会ったのが、当時の整骨院の先生でした。先生はマッサージや電気治療をしてくださるだけでなく、身体の使い方、バランスの重要性、筋肉や骨格についての知識まで、本当に色々と丁寧に教えてくださったのです。
なにより、私の話を真剣に聴いてくれる──その姿勢が、すごくありがたかったんです。
やってもらうと本当に身体がラクになる。少しずつ希望が見えてくる。そんな毎日の中で、私はふと、思ったのです。
「整骨院の先生って、めちゃくちゃ良い仕事やなぁ……。」
そして、将来の進路を考えるタイミングが来たとき、自然とその想いが自分の中から湧き上がってきました。
資格の本を読み漁っていた時、ふと手に取った「柔道整復師」という文字。
──これだ!!これが自分の道だ。
そう確信した瞬間でした。
そうして「整骨院の先生になる!」という明確な目標を持った私は、整骨院での丁稚奉公をスタートさせました。
当時の私は学歴も経験も何もなく、いわば「ゼロからの挑戦」でした。そんな中、大阪にあるカイロプラクティックの専門学校へ通いながら、朝から晩まで勉強と整骨院で修業させていただき、毎日が怒涛のように過ぎていきました。
今でこそ「勉強は楽しい」と心から言えますが、当時の私はとにかく基礎的な国語力にも自信がなく、専門書を読むことすら苦痛で仕方がなかったんです。それでも、目の前にある一冊一冊の専門書を丁寧に読み込み、通勤の電車の中でも、歩きながらでも、本を手放すことはありませんでした。
その中で芽生えていったのは、「知ることの喜び」でした。
整骨院での修行も、決して楽なものではありません。先輩との実技練習、患者様対応、掃除、雑務──それらすべてが今思えば、治療家としての「在り方」を育ててもらっていた時間だったと思います。知識と同じくらい、姿勢や礼儀、覚悟が問われる現場でした。
そして、整骨院を開業するには、国家資格である「柔道整復師」を取得する必要がある。
迷いはありませんでした。
私は決意し、香川県にある専門学校へ3年間通うことを決めたのです。
修行先の先生からのご縁で、岡山県倉敷市にある整骨院でお世話になりながらの「二重生活」。朝から夕方までは整骨院で働き、夕方から夜は学校で授業、そして帰宅後は復習と予習──このルーティンを、当時21歳の私は毎日続けていました。
周囲の友人たちは大学生活を謳歌し、恋愛や旅行、飲み会に明け暮れている頃です。
羨ましいと思ったことも、一度や二度ではありません。
でも、どこかで分かっていたんです。
「自分は、人の倍、いや、3倍やらないと追いつけない」
そんな思いが、私の原動力でした。
実際、1年目の段階から学年トップクラスの成績を維持し、授業でも常に先生の言葉を聞きながら同時に復習と予習をし続ける集中力で勉強を続けました。
当時の給料は、ほぼすべてを専門書の購入と勉強会の参加費に費やし、自分にできる限りの投資をしました。
「なぜここまでやれるのか?」
そう聞かれることもありましたが、私自身も不思議でした。ただ、ひとつだけ言えるのは──
あの時、本当に、学ぶことが楽しかった。
身体の仕組み、筋肉や関節の連動性、痛みの根本原因、神経の働き、患者さんの心の動き──知れば知るほど、施術に生かせることがある。それが、たまらなく面白かったのです。
そんな中、私は瀬戸内の海と山に囲まれたのどかな田舎町で、心を整えながら、知識と技術を積み重ねていきました。
主食はもちろん「さぬきうどん」!(笑)
安くて美味しくて、今でも忘れられません。
この香川・岡山での3年間が、私の治療家人生の“精神の礎”となったと言っても過言ではありません。
3年間の学びと修行の末、ついに「柔道整復師」の国家資格を取得した私は、再び大阪に戻ってまいりました。
あの頃の私は、「よし! これからは自分の力で、目の前の患者さんをちゃんと治していけるんだ!」という希望と覚悟に満ちていました。
地元に戻ってから、すぐに整骨院に勤務を開始しました。これまでの勉強と現場経験を生かし、精一杯の想いで施術をしていました。
けれども──そこで、私は大きな壁にぶつかることになります。
どんなに一生懸命に施術しても、どれだけ誠意を持って対応しても、患者さんの症状はすぐに戻ってしまうのです。
「その時は楽になるけど、またすぐ痛みが出るんです」
「何年も整骨院に通ってるけど、良くなった気がしないんです」
そんな言葉を、何度となく耳にしました。
一生懸命にやってるつもりなのに、成果が出ない。患者さんを心から笑顔にできていない──。
私の中に、徐々に「このままで本当にいいのか?」という問いが芽生え始めました。
周りの同僚や先輩にその疑問を相談しても、返ってくるのは、
「まぁ、そんなもんやろ」
「患者さんが『楽になった』って言ってるんだから、ええやんか」
「そもそもあの人は重症やから治らへんって」
……という言葉ばかり。
「え? 本当にそれでいいの?」
心の奥底で、私の中の“違和感”は膨れ上がっていきました。
そして、ふと自分の過去を振り返ってみたのです。
高校時代に整骨院に通っていた頃──
「確かに、あの時も“治った”とは思ってなかったな……」
「体は軽くなったけど、根本から良くなったわけではなかったよな……」
そんな記憶がよみがえり、自分自身がかつて抱いていたモヤモヤと、今の患者さんの想いが、重なるように見えたのです。
「整骨院って、ただその場をしのぐ慰安的な場所なのか……?」
「“治せる治療家”なんて、幻想だったのか……?」
その問いが、心の中をぐるぐると巡りました。
だけど──私は、どうしても諦めたくなかった。
岡山での3年間。あの孤独な勉強の日々、寝る間を惜しんで積み上げた努力。瀬戸大橋のふもとで、笑顔で治療を受けてくださった患者さんたちの姿。
「このまま“普通の整骨院の先生”で終わってたまるか」
「“治せる本物の治療家”は、絶対にどこかにいるはずだ」
その想いが、再び私を突き動かしました。
「絶対に、世の中には本当に治せる治療家がいる──」
そう信じて、私は患者としていくつもの整骨院、治療院、整体院に通い始めました。評判の治療家、口コミで話題のゴッドハンド、何ヶ月待ちの予約──。
学びのために、少ない給料を使いきって、患者として、そして治療家としての視点で各地を訪ね歩きました。
それと並行して、数々の勉強会やセミナーにも参加し、情報収集と実技の鍛錬を続けました。
その中で、ついに私は「この人だ」と思える、心から尊敬できる治療家の先生と出会ったのです。
その先生の施術は、たった3分ほどで完了するような驚くほどシンプルな施術でした。無理にボキボキもしないし、強く揉んだりもしない。
でも──終わったあと、明らかに体の重さや痛みが消えている。そして何より、心が軽くなっている。
「これが、本当に“治す”ということなのか……」
私の中に、稲妻が走ったような衝撃が走りました。
意を決して、その先生に弟子入りを申し出ました。
そこから少しずつ、先生の技術と考え方に触れさせてもらえるようになりました。
けれど、私がその先生から最初に教わったのは、技術や手技ではありませんでした。
それは──「人間性」でした。
「施術の技術はな、あとからついてくる。でも、それを支える“人間力”がなかったら、患者さんの心には触れられへんのや」
「治療家の前に、“人”としてちゃんとせなあかん」
「人の体を診るってことは、その人の“人生”を診るということや。そこに敬意がないと、いずれ施術は崩れるぞ!」
先生の口から出る言葉は、どれも魂に響きました。
だから、学びは施術台の上よりも、むしろその前後──
挨拶の仕方
掃除の丁寧さ
靴を揃える姿勢
気配り、立ち居振る舞い、礼節の徹底
そんな「当たり前のことを、どこまで丁寧にできるか?」を何度も何度も教えられ、時に厳しく、時に温かく、私の心根を鍛えてくれました。
その先生の元で学んだすべてが、今の私の施術の根幹になっています。
技術はもちろん、施術に対する哲学、理念、患者様に対する姿勢──すべてが、私を一段、いや何段も成長させてくれました。
こうして、私は26歳のとき、ついに「はまざわ整骨院」を開業しました。
たくさんの方に祝福していただき、お花と観葉植物が所狭しと並ぶ、まさに“植物園状態”の開院初日。あの光景は今でも心に鮮明に残っています。まだまだ20代。若さゆえの勢いと、患者様への思いだけで突き進んでいました。
しかし──現実は甘くありませんでした。
開業当初は思うようにお客様が集まらず、「このままで大丈夫だろうか……」と不安になる日々も続きました。
でも、私は師匠から教わった“信念”を貫きました。
「一人ひとりを、全力で診る。絶対に手を抜かない」
そんな思いで目の前の患者様に全力で向き合い続けました。
ありがたいことに、次第に口コミが広がり、3年目には1日70人以上のお客様が来院してくださるようになりました。
──それは、嬉しい反面、過酷な現実の始まりでもありました。
当時の私は、受付スタッフも雇わず、掃除、受付、施術、会計、事務……と、すべてを1人でこなしていました。朝早くから深夜まで働き詰めで、休みの日には寝込むほどの過労状態。
それでも「これが“努力”というものだ」「自分は、人の3倍働く」と自らに言い聞かせ、誰よりも長く、誰よりも多くの患者さんを診てきました。
1日に80〜90人、多いときには100人以上を施術していた日もあります。もはや「整体中毒」のような状態です(笑)
体力はギリギリ。精神も限界。
でも、患者さんが笑顔で帰ってくださる。それだけで、やりがいがあって、生きている実感があって──気づけば4年近く、そんな生活が続いていました。
そんな中で、同業の先生方から「勉強会を開いてほしい」と言われるようになり、月2回、自分の施術技術や考え方を伝える勉強会も開催するように。
そこに参加してくださる方も少しずつ増え、「ああ、自分もようやく、“誰かに教えられる立場”になれたんだ」と、少しずつ自信がついてきました。
だからこそ──手を緩めることができなかった。
でも、無理は続かないものです。
ある日、風邪をこじらせた私は、39度以上の高熱のまま無理して施術を続けていました。咳と倦怠感を誤魔化しながら、それでも休むことは選びませんでした。
しかし──限界でした。
見かねた妻に救急で病院へ連れて行かれた結果、肺炎と診断され、そのまま緊急入院。命に関わる数値が出ており、即刻安静指示。
2週間の入院、そして整骨院も20日間の休院となりました。
入院先は市立豊中病院。個室の窓からは、晴れた日の空と街並みが見渡せ、久しぶりに「外をゆっくり見る時間」を過ごすことができました。
「……ああ、なんて穏やかなんだろう」
高熱と咳で身体はつらいはずなのに、不思議と気持ちはすごくラクでした。
何より、何もしなくていい。誰かの体を治そうと必死にならなくていい。スケジュールに追われず、ただ、ベッドの上で“生きている”ことに向き合える時間。
この2週間が、私にとって人生で初めての“強制的な休息”だったのかもしれません。
そして、私は考えました。
「自分は、いったい何のために生きているんだろう?」
「誰のために、この仕事をしてきたんだろう?」
「こんなに頑張ってきたのに、なぜ心は、こんなにも擦り減っていたんだろう?」
ベッドの上で、思い返すのは、自分の過去ばかりでした。
整骨院の先生に憧れてこの道を選んだこと
岡山での修行
寝る間を惜しんで積んだ勉強と臨床経験
開業後の感謝と狂気のような働きぶり
そして、今──何もできず、ただ横になっている自分
「何が正解だったのか?」
「誰の期待に応えるために、ここまでやってきたのか?」
問いは深まり、やがてそれは、自分の“心の深層”に触れていきました。
私は気づいてしまったのです。
“努力”の裏に、「認められたい」という気持ちがあったことに。
「学歴がない自分を見返したい」
「人より劣ってきた自分を、ここで証明したい」
「ちゃんとした人間だと、証明したい」
──つまり、私は“治療”という仕事に、自分の劣等感をぶつけていたのかもしれないのです。
それに気づいた瞬間、ふっと、肩の力が抜けました。
そう思えたとき、不思議と、涙がこぼれそうになりました。
肺炎での入院から退院をしてからも、体調が戻らず、自律神経失調症を発症。日々続く不調に、次第に絶望感が強くなっていきました。
治療院やサロン、瞑想、栄養、運動、あらゆる方法を試しましたが、どれも改善には至りませんでした。
そんな中、知人の紹介で出会ったのが、ヒーリングという未知の世界でした。
初めて受けたセッションで、ヒーラーの先生がこう言いました。
「あなたは、ずっと自分と外の世界と戦っていますね」
その言葉に、僕は「その通りだ!」と感じながらも、「戦ってきたからこそ今があるんだ」と強く思っていました。
ところが、セッションを受けた後、心がスッと軽くなり、体もスッキリしていたのです。
「え、体に触れていないのに? これは……なんなんだ!?」
「癒すって何?!凄いんだけど!!?」
僕は衝撃を受けました。
もし、これを自分も身につけることができたら──。そんな可能性に心が震えました。
もちろん「自分に本当にできるのか?」という不安は大きく、家族からも反対されました。
でも、「やるしかない」という衝動が走り、ヒーリングの世界へと進むことを決めました。
そこからは、今までの自分の中の医学や整体系の常識を見直しながら、スピリチュアルや心理療法、古神道や密教、量子力学、波動理論に至るまで、あらゆる「見えない領域」を学び続けました。
気功、エネルギー療法、チャネリング、リーディング、周波数療法……。学べば学ぶほど、「人間とは何か?」への探求心が加速しました。
探究は止まらず、気づけば「真理を見つけて言語化する旅」を歩んでいたのです。
目に見えない、スピリチャルの事を学べば学ぶほど面白くて、引き込まれるように学んでいと同時に、私の中ではとても大きな葛藤を生むことでした。
なぜなら、「治療家」として築いてきた自分のスタンスは、目に見える“技術”と“理論”によって支えられていたからです。
「ヒーリング? 気功? 見えないものを採用していいのか?」
「患者様に“一般的に怪しい”とさせる施術をを提供していいのか?」
「周りから“スピリチュアル系にいった”等と思われないだろうか……」
そんな自問自答が、何日も何日も続きました。
でも──思い出したんです。
あの肺炎で入院していたとき、何もせず、ただ穏やかに「在る」だけで癒された感覚を。
そして、かつての患者様が涙を流しながら語っていた「体の奥にある感情」のことを。
そこから私は決意します。
「これは、“自分のため”だけじゃない。“患者さんのため”だ。だったら、堂々とやろう
そう決意してヒーリングの施術を本格的に導入する決意をしました。
最初は、ごくごく少人数の信頼できる患者様から、そっと始めました。
すると、今までの整体とヒーリングを融合した施術は、私自身も驚くほどの変化をもたらしました。
目に見えない「情報」や「感情」や「意識の誤作動」にアプローチすることで、肉体への影響が大きく変わっていくのです。
──やっぱり、人は「肉体だけの存在」ではない。
──心、意識、魂。それら全てと繋がってこそ、初めて“本当の癒し”が起こる。
確信に変わった瞬間でした。
ただ治すだけでなく、
再発させないだけでなく、
“その人の人生を、前に進めるための施術”
──私は、ようやく“自分の本当の施術”を見つけたのだと思いました。
長年、健康保険を取り扱う整骨院として施術を行ってきた「はまざわ整骨院」でしたが、ある時、私は大きな決断を下しました。
それは
──健康保険の取り扱いをやめ、自費診療へ完全に切り替えること。
この決断には、当然ながら大きな覚悟が必要でした。
「料金が上がったら来院数が減るのでは……」
「患者様から不信感や反発があるのでは……」
「収入が安定しなくなるのでは……」
そんな不安がなかったと言えば、嘘になります。
でも、私の中では明確な確信がありました。
──「もう、“保険の範囲内”では、本当に意味のある施術はできない」
健康保険にはルールがあります。施術できる部位、施術時間、使用できる技術、頻度……すべてが制限されている中で、「最高の施術」を提供することは難しい。むしろ、保険のルールに縛られることによって、本当に必要な施術ができないジレンマすらあったのです。
だからこそ、私は保険の取り扱いをやめ、「自分が本当に良いと思うことを、自信と責任を持って提供する」ことを選びました。
2016年7月──保険診療の取り扱いを完全に終了。
その瞬間、患者様の数は確かに減りました。
でも、残ってくれた方々は、「濱澤の施術を受けたい」と心から信じてくださる方ばかりでした。
むしろ、そういう“覚悟”をもった患者様と深く繋がれるようになり、「施術の質」も「信頼の深さ」も、これまでとはまったく違うものになっていったのです。
保険診療をやめ、自分の信念に基づいた施術を行うようになってから、私はますますこの仕事に対する「誇り」と「喜び」を感じるようになりました。
そして、2016年8月──
私は「はまざわ整骨院」の全体リニューアルを決意しました。
外観も内装も、すべてを一新。
それは、単なる“模様替え”ではなく、“生き方の再定義”だったと思います。
今までのように「来てくれた人をとにかく施術する」のではなく、
「真に心身を整えたいと願う人のために、最高の空間と最高のエネルギーを届ける」
──そんな新たなスタンスで、治療家人生の第二章が始まりました。
整骨院は、落ち着いたシックな空間になり、香りや音、光の入り方にまで配慮した“癒しの場”へと生まれ変わりました。
この空間で、私はこれからもずっと「人の人生に関わる覚悟」を持って施術をしていこう──そんな想いでいっぱいでした。
しかし、この「ヒーリング」は素晴らしい!とは思うのですが、実は大きな弱点があります。
それは
「理論が曖昧」
「科学的な説明や再現性が弱い」
「人によって効果や体感に大きなばらつきがある」
です。
ここが大きなジレンマとなっていましたが、
とうとうこれらが解決ができるようになりました。
理論やメカニズムなどを明確に言語化して説明ができるようになりました。
そうする事で私の中でほぼ完全にヒーリングの根拠や確実性が説明でき、
その必要性と可能性を全て言語化できるようになり、
体感のバラツキはあれど効果は誰にでも同じように出せるようになりました。
私にとって、量子力学、脳科学、認知科学の理解は大きな革命になりました。
文明の進化に感謝ですね。
古来からの教えと、現代の科学が統合された感覚でした。
メカニズムがわかると自分の今までの経験や様々な経験値を活かした、
独自のヒーリングを構築する事ができるようになりました。
整体・カイロプラクティック・オステオパシー・心理セラピー・浄霊・トラウマ解消・チャクラ理論・気功・オーラヒーリング・コーチング、、、
などの学びや実践で得てきた「様々な機能」再現させる技術を生み出していきました。
そして、現在の施術スタイルの「情報変換ヒーリング」が誕生しました。
そこから私は、肉体の歪みや痛みを整えるだけでなく、
──そういった目に見えない“心の誤作動”にも向き合いながら、施術を行うようになっていきました。
もちろん、ヒーリングだけでなく、解剖学や神経系、心理学、量子物理学、そして実際の臨床経験を総動員しながら、“理論と感性の融合”によって、その人に最適なアプローチを探し続けています。
「肉体と精神と魂は、すべてつながっている」
それを実感するたびに、私は施術という営みの奥深さに感動します。
だからこそ、私のライフワークは、「心と身体の関連性」を探求し続けること。
そして、それをより多くの方達に伝えるために、情報変換ヒーリングができるセラピストを育成していく事。
2022年から現在まで、350名以上の方に情報変換ヒーリングの代表講師として育成活動を行ってきました。
そして、それらによって得た気づきや学びを、患者様と、ヒーラーを志す受講生たちと共に分かち合い、共に成長していくことなのです。
高校時代の大腿骨骨折
岡山での3年間の修行
がむしゃらな開業
過労での肺炎入院
ヒーリングとの出会い
本質、真理への探求
今振り返ると、どれもが“伏線”だったと感じます。
あのときの挫折や苦しみ、そして誰にも言えなかった不安や孤独──
それらすべてが、今の私の施術に織り込まれています。
人の身体を扱うということは、
人の感情や人生をまるごと受け止めるということ。
それを本気でやろうと思ったら、自分自身の“人生の深さ”が問われるのだと、私は思います。
病気や怪我は、ただの不運ではありません。
そこには、必ず「気づき」や「目覚め」のメッセージが含まれている。
私はそう確信しています。
あなたへ──読んでくださった方へお伝えしたいこと
ここまでの長文を、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
私はただの「整骨院の先生」ではありません。
「人生そのものに寄り添うセラピスト」であり、
「心身と魂の誤作動を再統合するヒーラー」であり、
「人の可能性を信じ、共に未来を築く講師」でありたいと思っています。
もし、今あなたが、
・身体の不調に悩まれている
・長年の違和感や痛みが取れない
・心の奥にある傷が癒えていない
・これからの人生に迷いがある
──そんな状況であれば、どうか一度、お話を聞かせてください。
施術でも、ヒーリングでも、講座でも、どんな形でも構いません。
私は、あなたの“可能性”に触れるお手伝いができたなら、それだけで本望です。
そして──あなたの人生が、より自由に、より健康に、よりしなやかに流れていくように。
その一歩を、共に歩ませていただけたら、これほど嬉しいことはありません。
これからも、はまざわ整骨院を、
そして濱澤知宏という人間を、どうぞよろしくお願いいたします。
濵澤知宏
〒561-0884
大阪府豊中市岡町北1丁目1-10
阪急宝塚線 岡町駅 徒歩1分
hamazawa.seikotsuin@gmail.com